公明党 衆議院議員 平林晃 公明党 衆議院議員 平林晃

略歴

1971年2月 愛知県名古屋市に生まれる
1989年3月 愛知県立旭丘高等学校 卒業
1993年3月 東京工業大学 工学部 情報工学科 卒業
1995年3月 東京工業大学 大学院 情報理工学研究科 修士課程 修了
1995年4月 東京工業大学 大学院 情報理工学研究科 助手
1999年12月 博士(工学、東京工業大学)
2000年9月 山口大学工学部講師
2002年10月 山口大学工学部助教授(後に准教授)
2004年9月 スイス連邦工科大学ローザンヌ校 留学
2009年8月 インペリアル・カレッジ・ロンドン 留学
2013年3月 立命館大学情報理工学部教授(21年3月退職)
2021年10月 衆議院議員に当選
現在 衆議院総務委員会、同文部科学委員会、同原子力問題調査特別委員会
党内 総務部会、文部科学部会、環境部会、内閣部会、厚生労働部会、農林水産部会、経済産業部会、国土交通部会、復興・防災部会
山口県本部顧問、島根県本部顧問

Human Story

誕生(1971年)から
高校(1989年)まで

心に残る母のミシン

心に残る“母のミシン”

1971年2月2日、名古屋市北区で誕生。今も古くからの団地や家屋が建ち並ぶ“庶民の街”で育つ。両親と二つ上の姉の4人家族。生活は決して楽ではなかった。母は「家計の足しに」と縫製の内職を。自宅にあった工業用ミシンのあの独特の音が今も耳朶に響く。
心に残る母のミシン
「天文学者になりたい!」

「天文学者になりたい!」

幼少期、母が多くの本を読み聞かせてくれた。興味を示したのは物語ではなく、「ロケットのしくみ」や「地球はなぜ青いのか」といった科学の本ばかり。すっかり宇宙に魅了され、小学生時代には地元プラネタリウムの天文クラブに所属。親戚から借りた望遠鏡で夜な夜な、木星の衛星「ガリレオ」や土星の環などの天体観測をする少年期を過ごした。小学校の卒業文集には、将来の夢の欄に「天文台を造りたい」と力強く記されている。
「天文学者になりたい!」

かつては“バク転”もできた!?

小学校時代は野球部。中学校ではサッカー部で左サイドバック。高校は体操部、2年時に主将。当時はバク転・バク宙、車輪もこなしたが、「今は絶対にできません(笑い)」。

進路を決めた父の一言

高校時代、物理学の道に進もうと考えていたが、仕事で電算を担当していた父から、「これからは情報の時代だ」とのアドバイスを。時はインターネット黎明期の1980年代末。新時代の到来を予感していた父との語らいが道を開いた。
東工大時代(1989年〜2000年)

誕生(1971年)から
高校(1989年)まで

“理系最高峰・東工大”に進学

中学のときにぼんやりと抱いた“理系最高峰・東工大”への憧れ。猛勉強の末、第5類に現役合格。2年次に情報工学科に配属。生活費の足しにするために、1年次から大学院まで6年間、同じ学習塾にてアルバイト勤務。大学院時代には、日本ガイシ株式会社が提供する給付型奨学金を受給、有難さを実感。

情熱と人柄認められ研究者に

大学院進学と共に小川英光研究室に所属。画像処理の大家だった恩師から、情熱と能力、さらに後輩への面倒見の良さという資質を見いだされ、1995年修士課程修了とともに助手に採用。研究者としてのキャリアをスタート。恩師の指導のもと、画像処理、信号処理における「逆問題」を探求。逆問題とは、結果から原因を探る問題。①粗い画像から鮮明な画像を生成する②X線投影データからCT画像を求める③レーダー観測から雨量を予測する―などなど、多くの応用問題に展開できる。スマホなどの身近な技術に使われるほか、医療や防災など命や地域を守る分野にも広く応用されている。「人びとの幸福のために役立てたい」。その信念のまま“学問の道”を真っすぐ歩んできた。

難関乗り越え、中国地方へ

助手採用から数年、成果を出せずに苦しむ。そんなとき、山口大学工学部での教員公募情報に接する。採用条件は博士号取得と論文10本。しかも期間は約1年間。当時の論文数はわずかに1本であったが、恩師をはじめ周りの方々に支えられ奮起。条件を全てクリアし、2000年9月、山口大学講師に。この時執筆した論文にて計測自動制御学会「技術賞」受賞。

山口大学から立命館大学(2000年〜2021年)

豪雨災害で実家が被災

山口大学赴任直後の2000年9月、死者10人を出した東海豪雨が故郷・名古屋市を襲った。浸水被害は約7万棟にも上り、平林の実家も被災。家族の命こそ無事だったが、大事な家財や思い出の品々を喪失。だからこそ、被災者の生活再建のつらさ・苦しさは痛いほど分かる。この体験を原点に、災害対策の強化を誓う。「防災・減災・復興を社会の主流に」と。

海外留学

2004年9月、念願の海外留学。レマン湖に臨むスイス連邦工科大学ローザンヌ校に半年間滞在し、信号処理・画像処理分野の世界的権威、ミカエル・ウンサー教授の研究室に所属。デジタル信号をアナログに再構成する理論で大きな成果を出し、論文を発表した。この論文は、電気・電子分野における世界最大の国際学会IEEEが発行する学術誌に掲載された。この学術誌掲載は「ずっと目標の一つだった」。2009年8月には2度目の海外留学。インペリアルカレッジロンドンでピエール・ルイジ・ドラッゴティ准教授(当時、現教授)の研究室に半年間、所属。画像処理の研究に打ち込むと共に、国際学会で成果を発表。
42歳で立命館大学教授に

42歳で立命館大学教授に

米国スタンフォード大学教授らが開発した最新技術「圧縮センシング」を2009年、日本で初めて紹介。一連の論文が高く評価され、2013年4月、42歳で立命館大学情報理工学部教授に就任。外部採用としては若年採用。2015年にメディア情報学科長、2017年から2年間は副学部長を歴任。このとき、中国・大連理工大学と立命館大学との共同学部担当となり、現地にたびたび足を運び交流を。大学の管理・運営に関する貴重な体験となる。
42歳で立命館大学教授に

衆議院議員に

2021年3月に立命館大学を退職。同年10月31日の衆議院議員総選挙にて比例中国ブロックから初当選(第5位)。現在に至る。
衆議院議員に
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